4/29 清春新報/ウパニシャス・ディード/【ラブラブ】俺の夜剣士【独占欲】
4/25 勢い余って nito千瓜 ニト×チカ /プレインズウォーカーの火花/TCG人物列伝・グレンヒ
4/23 二トリアス
4/21 ひゃうんを称えるスレ/ニトロ・ザ・カミカゼ/MNR出陣
4/19 mythology/愛する吉チカ
4/18 大長編つよし構想/司闇がいやーん
4/16 phantom pain(抄訳版)/エリカのドリカム日和
4/15 愛する巫女瓜を褒め足りない/suicissus/ポーンエンドとロリータ/武本(笑)
4/14 ゾアラ感想/マーガレットファイター強
4/13 ラブ&外道
4/11 円環の廃墟/カシュラムの就活
4/9 愛する巫女瓜と躁鬱さんを褒めちぎる
4/8 priority/フォローされている/mythology
4/7 まだ死楽を訳す/俺のfollower/よしチカラブラブ
4/6 こおらるしろと死楽の英訳
4/5 こおらるしろ英訳/ その辺スレ/トーナメント制の難点
4/4 birth
布教
God of Romance
IIDX MIX -The energy of EUROBEAT-

4/29

清春って、sads時代に気に入らない観客におにぎり投げつけてたみたいですね。

おにぎりって(笑)おにぎり持ってステージ上がってたんですかね。パンク過ぎるだろう。それとも薬やってギターのピックとおにぎりの区別がつかなくなったのか。

黒夢解散LIVE特番では
「清春さんてけっこうこわいイメージあったんですが……けっこう、普通の方ですね」
と言われ、
「まあ、いい年した二児の父としてね。もう40過ぎてますし。それくらいの常識はありますよ……ほんと、音楽業界でベスト10に入るいい人だと思いますね、僕」
と自信満々でしたが。こわいよ妖怪おにぎりぶつけ。sadistic and dengerous過ぎる。人におにぎり投げつけても余りあるほどの常識を持っているということなのかそれともおにぎりを投げつけるのが常識の範囲なのか。

そうすると、父として二児に胸張っておにぎりのことを語れるということになります。
「今日父さん、LIVEやるからな。よーし、パパ、シーチキン投げちゃうぞー」
って感じですか。カリスマはさすが考えることが違います。

どう転んでも面白い人ですね。

ウパニシャッド哲学の解説本読んだ。

トータルの印象としてはたいして面白くもなかったのだが、古代インドだと根源物質を「熱」「水」「食べ物」にしているのが面白かった。

ギリシャ人が中二病全開で「世界の根源は火だ!」「いいや、水だ!」「無だ、限定されないものこそがあるのだ!」とか言ってる間に、インド人は「熱、水、食べ物」ですよ。生活感があっていいですね。

ほか突っ込みどころとしては、「水から息吹が、食物から思考がそれぞれ生まれる」ことを教えるために、息子に15日間水しか与えなかった王の話があります。その状態でヴェーダ(聖典か聖歌か何か)を暗誦させようとするのですが、当然思い出せません。その後、食物を与えてからもう一度暗誦させると今度はできたので、食物から思考が生まれることが証明されるというのです。悪魔かあんたは。

4/25

最初nitoroさんをいじめるゾアラ(さまんささん)とチカが戦う話を描こうと思いましたが、それよりチカを西瓜さんにした方が面白い気がしました。

微妙にそういう風に見えるかもというところなので補足すると、ゾアラの感想の感想を後回しにしたのは怒ってるとかではない。

読者はそれを政治的に利用しない限りどの作品をどう読んでもよく、いつも人を怒らせかねないことばかり(西瓜さんとか)言っていたり、人を怒らせたり(「感想くれ」って言ってる人に「つまらないです。昔のあなたはもっと輝いていた」という主旨の感想を3回送ったらマイミク切られたとか)している私が、面白くないと言われて怒る筋合いはない。が、作者が何か言ってしまうとそれが「作者の言ってること=正しい読み方」として読者の読みの自由を侵害する恐れがあるので、慎重に書くか、時間を置くかしたかった。

ゾアラは久しぶりに全力疾走した。そういう場合、いつも頭の中で何度もサイクルが回されて、ほぼ完全に組みあがってからアウトプットされる。だから頭の中に焼きついていて、未だにコマの割り方もセリフの一字一句も、吹き出しの配置も記憶している。はじめてまともに小説らしい小説を書いたときも、3ヶ月くらいの間、クライマックスは暗唱できた。

こういうときいつも思うのは、考えているという感触があまりないのだ。工場のベルトコンベアの前に立っている感覚に近いかもしれない。

はじまりはいつも唐突にやってくる。それがかみ合ってしまうと、以降何をやっているときでも、気がつけばそれのことを考えている。

それは何をやっているときでも私の頭の中の一部を勝手に使って構成を展開し始める。私にとって非常に魅力的であるそれから、私は考えを逸らすことができない。

何度も再生されるうちに輪郭は次第にはっきりしていく。それを何十サイクルも回しながら(この辺りになると、自発的にサイクルをスタートさせているという感触が出てくる。しかし、ほとんどそれのことしか考えられないという意味で、やはり思考を占拠されている感はある。)、細部を点検し、それがテキストのものであれば文章の構成やリズムの気になるところを訂正し、また何十サイクルも回す。マンガであるならコマのバランスやアングルを頭の中で修正してサイクルを繰り返す。

こうした微調整と微調整後の確認を何度となく繰り返し、もはや直すところはないとなった時点で外界にアウトプットされる。

できあがったものはいつも実に自分らしいものだと思うと同時に、まったく自分の考えたものに見えなくもある。自分はただ、頭の中で誰かが喋っているのを聞き取ってメモしただけという感がとてもぬぐえない。考えるという能動的なニュアンスのある単語に相応しい、これが内的行動であるのかわからない。

シャーマンて多分こんな感じなんじゃないかと思う。数千年すると、作家っていうのが「シャーマンの一種で、西暦*000年くらいまでは、シャーマンとは別個の存在であるように考えられていた」というような説明をされているんじゃないかと思う。

そういう意味で言えば私はゾアラに対して人事のように感想を述べることができるはずだし、そういう意味でないにしても、描いた本人の考えていたことと読者がそれをどう読み取ったかの差を明らかにするのは、自分で何かかく様な人の多いこの日記の想定読者にはエンターテイメントとして機能するんじゃなかろうか。

だから感想自体は書きたくはあるのだが、慎重な書き方をしないと言い訳をしているように見える恐れもあり、そういった意味で間をおく。

投票のコメントはあれは単に私なりのnitoroさんいじりで、nitoroさんの面白いところって、「この人根はいい人なんだろうな」というのが見ていてなんとなくわかるところだろうと思っているので、その側面を強調してみた。西瓜に塩を振るようなもの。

前回の日記の補足。

「〜さんはキャラで言うと○○みたいだよね」の話のとき、「nivさんはグレンデルヒっぽい」っていう意見が出て、「この人たちは、私の喉のくすぐり方を心得ているなあ」と思っていたら、くろねこさんが「グレンヒっぽいですね」と落としてきた。

そのときのメンバー的に誰も気づかなかったようだが、グレンヒというのはグレンデルヒではない。

2008年の2月ごろ、ポーンさん主催の、プランなしでキャラクターを構築する簡易版TCG『TG』が主催された。

名前も簡略化されており、名前は4文字までしかつけることができなかった。

グレンヒはTGのラスボスとして登場した。ストーリーはこんなじゃなかったかと思う。


女がほどいた。すると男は弱くなった。

「決闘だ。なぜなら槍で1レベルだからだ」


あんま覚えてないけどこんなようなのだった。

このとき決勝まで勝ち進んでいたのは咲ちゃんだったのだが、話の途中で「ちょっと水飲んできます」とPCを離れてしまい、グレンヒは「わかった」と素直に待っていた。待っている間にギャラリーがハンターハンターの連載再開を話題にしていたら「本当か」と興味を示すなど、全体的にどうしょうもなかった。

くろねこさんはつまり、「グレンデルヒっぽいですか? いや、グレンヒみたいですよね」と、他の誰にも分からないように、しかも公然と人を馬鹿にしてみせるという高度な技をやっているのだ。

そろそろみんな、ゆらチャで最も邪悪な存在が誰かに気づいていいと思うよ。悪魔はみな最初優しいのだ。

4/23

nitoroさんの感想にレスしようかと思ったが、しばらく時間経ってからにする。

前にチャットで、「〜さんはキャラでいうと○○みたいだ」というような話があったのだが、nitoroさんはなぜだか、吉宏の顔でイメージ化されている。ポーンさんの描く一番イケメンの吉宏。眼鏡をかけているという風に聞いたが、単に眼鏡をかけた吉宏としてしかイメージできない。なんでかな。

4/21

ダスクの庭に飽きたので、閉塞センチメンタルを始めた。

ダスクの庭では、モンスター死亡時のメッセージに「〜は粉々になった」で衝撃を与えてくれたmuspell。今回は「〜の鮮血が夜空に散った」です。戦闘の度に詩的な情景が。さすがセンチメンタル。

ほかにも、「何かある」のメッセージで「調査」のコマンドを選ぶと、「何も見つからなかった」と言われます。さすが、西瓜さんのゲームのメッセージは容赦ありません。

普通にゲームとしても楽しいですよ。

nitoroさんがゾアラの感想を書いてくれました。他はひとまず置くとして、

http://nitoro666.blog10.fc2.com/blog-entry-14.html

>あと、nivさんは吉宏に自分を少々重ねている気がしました。

これすごいなあ。ぜひ現在進行中のリレー漫画でも、終了時に同じように切り込んでいってほしい。主に西瓜さんとかさまんささんとかに。私の名前は出さずに。教唆罪とか面倒くさいんで。

私は平気なのですが。

MNRをやってみることにした。

赤ポイントを使い切ったら何度もやり直す前提で、考えすぎずに気楽にやる。

最初の5ポイントは、HP5とすばやさ1は確定として、残りどうするか。すばやさ2くらいは多分毎回使うだろう。HPは構成の分かっている相手と戦うのなら、毎回10も要らないかもしれない。盾は加速加熱にもデスにも役立つだろうし、絶も自分がデスをやるにも攻撃力で攻めるにも役立ちそうだ。ということで、初期値は5/0/0/2/絶盾にした。(緑はどうせ組み替え自由なので考えてない)

と思ったら、戦闘中は組みなおせないらしい。ちょっと考え直す。⇒とりあえず振ってしまった分は変えずに、緑を追加。これで行けるところまで行ってみる。



4/19

昔の人が迷信深かった、とか神霊や怪物の存在を強く信じていた、という考え方を疑っていて、今と同じ程度の迷信深さだったのではないかと思っている。

現代の日本においてもUFOやら心霊写真やらの特集番組はしょっちゅうあり、家を建てる前にはお払いをし、新年には神社に人が押し寄せる。事情をまったく知らない外部の視点から見れば実に迷信深く見えそうなものだが、その実、大半の日本人は幽霊やなんかを信じているのかというと、別に信じているわけでもない。

どういう特権があって現代の我々だけを切り離し、「神話は昔の人が世界のあり方を説明するために作り出したもの」などという言い回しが可能なのだろうか? 存在しないものを存在しないとした上で、なおファンタジーを楽しむ余裕くらい昔の人も持っていたであろう。それはバットマン・ダークナイトやポケットモンスターが、現代の人間が世界のあり方を説明するために作り出したものであるのと同程度の意味においてしか当てはまらないのではなかろうか。

無論、迷信深い昔の人もいたであろう。しかし、表面的な資料をいくら読み、読解したところで、そこに生きていた文化を知らないことには、それらの資料の有している本当の意味に到達できるかは疑わしい。

たとえば、「〜は俺の嫁」「三次元の女は諦めた」「14歳以上はババア」などのフレーズが行き交いするある文化圏が現代日本には存在する。この文化をよく知らない外部からこれらの字面だけを見ていると、「なるほど、この人たちはアニメのキャラクターと結婚したいと思っていて、現実の女性については諦めていて、重度のロリコンで13歳以下でないと無理なのだな」というように見える。

が、実際のところ当事者たちは本当に結婚したいと思っているわけでもなく(いくらか思ってもいるか知れないが)、本当に三次元の女を諦めているわけでもなく(いくらか諦めているかもしれないが)、13歳以下でないと無理だというわけでも(これもそういう人は0ではないだろうが)ない。自分たちの置かれているあるポジションについて表現した、諧謔的かつ自嘲的な単なる流行語として流通しているに過ぎない。

こうした文化の空気を知らずに外からの観測だけで説明を組み立てても、文化内部の認識とはまったくずれたものになってしまう。

同様にして、昔の人が旅に出発する前に神社にお参りに行ったからといって、それは信仰心の表れではなく、現代の人間が家を建てる前にお払いをするのと同じく、社会通念としてしなくてはならない種類のことだからそうしただけだか知れず、聖書の言葉をやたら引用しているからといって、それは他に引用するのにちょうどいい物語が当時なかったからで、「偉い人にはわからんのです」等、ガンダムのセリフを引用しているのと同じ類のことだかしれず、新田義貞が神仏に祈りを捧げて刀を投じて海を渡った、という話を聞いた昔の人は別段神仏のもたらす利益に畏敬を感じることもなく、オフレポで「ここで○○がまた空気を読まない発言をしたので、とりあえず100発ほど殴っておいた」等、ありえない記述を読んで「まあ、実際こんなことはなかったのだろうけど、この人たちの人柄と関係性がデフォルメされ、面白く描かれているな」と楽しむような視点で太平記を聞いていたのだか知れず、あまり昔の人をなめるなという話である。

この疑念を裏付ける何の証拠も私は持っていない。が、士農工商という身分制度は、現在ではなかったということになっているらしい

数百年前の文化についてあてずっぽうしてみたところ間違っていたということであり、数百年前でこんなに間違っているのなら、1000年2000年前などなおのことあてずっぽだろう。

「バラモンの家族が部屋にあった。ということは、この部屋の住人はこれに影響されて殺人をしたのだ」レベルの文化に対する無理解が大量にあるんじゃなかろうか。



ちなみに、タイトルの愛する吉チカには、私nivが彼らを愛するという意味と、彼らが愛するという二つの意味を持たせました。どうでもいいですね?

4/18

完全に1ページだけのねたのつもりだったマーガレットファイター強の続きを描くよう唆され、そう言われてみるとまあネタは思いつく。

ヒロイン登場。

アメリカからマーガレットをするために日本にやってきた忍者少年ニトロ。

「もうやめて! RAYさんのHPは0よ!」

マーガレットで世界を征服しようとする悪の組織。

真面目にぜんぶやろうとするとすさまじい作業量になる。どうやって手を抜くか。

くろねこさんが、司闇の名前の呼び方の変化から、抜け目なく6話と7話の間で何かが起こったことを見抜いていた。

さすが、くろねこさんはくろねこさんですね。

4/16

手術で乳房を切除した女が、幻肢で痴漢に遭い、腕を捕らえたつもりが腕がなく、男は幻肢で痴漢をしていた、という話を書こうと思い、めんどくさくなってやめる。一行で済むことは、一行でよい。

エリカ登場の次のtcgwで、くろねこさんはす、好きだ!君のことが好きだ!も、君を追ってここまで来たよもすっとばして、いきなりバラなんかくわえてみたりした。

これは何を意味するだろうか。無論、大勝利を意味する。

4/15

愛する巫女瓜について補足。

正確には、愛する巫女瓜を見たときではなく、”『ちなみに、「愛する」には私西瓜が〜』の段落の解説を読み、その後、ウェディングドレスで扉の前に立って振り返る巫女瓜を見たとき”に感動したのだ。

この解説こそが要である。この解説、「私西瓜が愛する巫女瓜という意味」だけではあまりに照れくさいからカムフラージュのために並べられたかのような「巫女瓜が愛するという二つの意味を持たせました。」、そして締めくくる「どうでもいいですね。」というつけたしのついた解説こそが私の心を揺り動かすのだ。

その2つの意味合い、比率にして95:5くらいなのではなかろうか。『「いや、巫女瓜が愛する」という意味も重要だよ』という反論がありそうだが、それは9500:500でどちらも重要というような次元で重要なのであって、比率にするとやはり95:5だったりしないだろうか。単にウェディングドレスを着たのみでなく、扉から去って行く前で振り返る、そのシーンをあえて切り取って絵にしたのは、そんな強い思い入れが背後にあってこそのように思えてならない。

そして「照れ隠しのカムフラージュを行う」という動作は、「真意を知られたくはない」という動機を証言している。

だが、真に知られたくないならば、言わなければいいのである。ならばなぜ言ったのか。「真意を知られたくない」という心理を押しのけて、「それでも言いたい」という情が勝ったからである。

この情の強さが私を感動させるのである。

死楽の訳をまだ考えていた。

死楽というのは要は「好き好んで死にたがる」という意味なのだから、suicideを組み合わせてSuicissusでどうだろうか。

「死」「楽」と併置した場合、メインの意味である「死を楽しみに思う」以外にもいろいろな暗示を含めることができ、それをsuicideの一語にまとめると失われるものがあるのだが、まずぱっと見それっぽい英語の合成語になっている気に見える、という利点が大きい。偽左右対称(左右対称だって言い張れば一瞬錯覚させられそうな文字の配置)なあたり、鏡連打するNarcissusぽさが出ている気がする。

気がするのである。

この類のことをやっていて毎回思うのだが、TOEIC換算にして400かそこらしかないであろうような日本人が、ある日本語に対し、それを日本人が聞いたときの印象とそっくり近い印象をネイティヴが聞いたときに与えられるような英語化した場合の最適表現を、日本人をギャラリーに考えるという、これはいったい、何をやっているのだろうか。

私はなんとなく「suicissusの方がそれっぽい(suicissusの方が、ネイティヴから見て死楽の訳としてより適切に見てくれるっぽい)」ように感じているが、実際のところネイティヴに聞いたら、下の方で没にしたものの方が実に死楽である、という反応が来るのかもしれないのだ。

ネイティヴのオタと仲良くなれればいいのだが。やっぱり洋snsか。

ポーンルートの吉宏が、チカを転ばせたあと顔を伏せているのは興味深い。

非人間的に振舞っている吉宏だが、深層では自分の行動に恐怖しているのではないだろうか。「殺すことには何の抵抗もなくてもグロテスクなシーンを見るのは拒否したい」というのは考えづらい。まさにグロテスクな、半身を切断されたチカを平気で直視しているからだ。ほかに想像できるのは、せいぜいゾアラの前でそのような自分を演じる必要があった/おどけてみせた、くらいだろう。決定的な証拠はないが、恐怖説を私は採る。逮捕後あっさり自白している辺りからも、吉宏が表面を狂気でコーティングしただけの、脆い人間であるのが窺える。なんであんな風な人間になってしまったのかはわからないが。ロリータで、妻が轢かれた時の主人公の反応を思い出す。

これを書いていて、ロリータは実はあれは、正常だった男が妻を失っておかしくなっていたところで娘に手を出してしまい、後付で「自分はずっとロリコンだった」と言い張っている小説だったのかもと思いつく。

ところでロリータは主人公が天才的にだめなので、だめなブログを読むのが好きな人にはお勧めだ。MTG界隈でトップクラスのクズが書いたブログであっても、なかなかああはいかないだろう。どのくらいだめかというと、武本といい勝負だ。

屠殺ルートは、ゾアラがマーガレットでチカがララフレアなら、吉宏がシザ=フランダース、くらいのことは言い出してもよさそうなものだが、どうも、微塵にもそんなことは考えなかったようだ。

作者にとっていかに吉宏がどうでもいいかがわかる。

くろねこさんにとっていかにどうでもいいかもわかる。マーク=パンサーみたいだ。

4/14

ゾアラ終了。

個人的には、ハッピーエンドに分類される。視点を押し付けるのがやなのでやめたが、最後「おわり」でなく「happy end」にしようかと最初思った。

突っ込みどころが数え切れないのを別にすれば、ドン・キホーテ(絵本のではなく、セルバンテスの書いたもの)に似てる気がしている。誰かその種の文学評論やってくれないかなと思いつつ、誰もやるはずもなく、自分でやることになるのだろう。

屠殺エンドはカルヴィーノめいている。

何もない宇宙で、おそらくは実際には姿を持たないであろう吉宏らが数字を言い合って(無論声などない)楽しんでいる(無でありながら意志がそこに存在している)という状態から、20年位前にNewtonで読んだ、現宇宙が崩壊したあとに、直径3000万キロだか3光年だか、とにかくスケールのでかい粒子が物質の最小単位になるだかっていう話が書いてあったのを思い出した。というよりも、それを読んで、そんな巨大な粒子が集まって作られる、光の速さでも神経伝達にどれだけ時間がかかるのか分からないような生物の意識様態はどんなものだろうと考えたのを思い出した。この話はずっときになっているのだが、何で検索すれば見つけられるだろうか。

ポーンエンドは、しょうがない人だなあと思った。

4/13

4/11

小説を書いた。

「特技は終端を弑するとありますが?」

「はい。終端を弑していました。」

「終端を弑するとは何のことですか?」

「カシュラムの諺です。」

「その諺は当社において働くうえで何のメリットがあるとお考えですか?」

「権力を選定できます。」

「権力を選定するのは新入社員の仕事ではありませんよ。」

「はい、最初のうちは飽く事無くただ只管に平らげ、暴食王の名を縦にするくらいから、仕事を覚えていこうと思います。」

「うちの仕事の内容をどんなことだと思っているんですか?」

「君臨することです。」

「わが社の業務内容を勘違いしておいでのようですね。」

「嵐が風味となり、血潮加減が味付けとなります。」

4/9

愛する巫女瓜を見たときには、『ロリータ』の最後のページを読んだときのような感動をした。

まあ、自作のキャラクターへの愛を公言してしまっている以上、読んでいてなんだか面白い気分になってしまうのは致し方ないことであるが、この面白さによって私の感動は一点も曇りはしない。

躁鬱さんインサニティはこのポーズのぎこちなさが素晴らしい。もし、あと少しでも自然な筋肉の緊張を感じられるような体勢だったら、マーガレット・インサニティという神々の戦いの場に相応しいキャラクターとはならなかったことだろう。

目が構えとまるっきり関係のない方を向いているのも大きい。視覚から得られる情報に頼らずにこの構えにたどりついたかのようだ。それは五感以外の感覚かもしれない。

単に視覚情報を必要としていないのなら、ノイズを消すために目を閉じていてもいいのに、目は大きく開いたままだ。もしかしてあの目は擬態なのではないか。そんな想像すら掻き立てる、不気味で異様な感じがこの絵にはある。

こうした感想に対し、こういう反応が想定できる。「それは、もっと自然な体勢を描こうとしてうまくいかずにそうなってしまっただけなのではないか」

確かにそうなのかもしれない。だが、だったら「作者の想定したとおりの見方に補正して見ろ」というのだろうか。それは「表現物から作者の意思を透かし見て、その意志の形にキャリブレーションをかけて見る」見方だ。一個の鑑賞のスタイルとして認めはするが、それが一にして全ではない。あるものをあるとおりに見る、という見方もまた同様に尊い。

ごく有名なところで、たとえばミロのヴィーナスが存在する。腕がなくなるなどという偶発事象を想定に入れてつくられた、あれは像ではあるまい。にもかかわらず、作者の思惑を越えてそれは、「腕を失うことにより完全になった」などと言われる。作者はもしかすると不本意であるかもしれない。しかし、鑑賞者がそれを素直な精神の感銘として、「腕がない方がよりよい」と思うのであれば、それはどう補正しようもない真実である。

たとえば、あなたが心からよいと思うある作家、ある画家の何らかの作品が、実はその作り手の技術の不足にこそ由来するもので、より高い技術を持っていたらその作品はそのような形態ではありえなかった、のではないとなぜ言い切れる? そして、より高い技術で完成されていたとするなら、それは必ずしもあなたにより強い感動を与えるだろうか?

作者の技量がどうなのかだとかそんな外部の情報はどうでもよい。私はただこの絵の限りにおいてこの絵の異形さを好む。

徹頭徹尾において。これは褒めている。

4/8

例のあれ用に書いたが、2kb。アドレスを貼るには及ばぬ。小説を書けと言われて小説を書く気がないのは、いつものこと。


priorityの訳語に「紀の力」という造語を選んだのは、「最優先性」「至上性」といった訳語では、最も重要な文脈上の意味が目に見えなくなってしまうからです。

"It Flickers"では、priというスペルは特別な意味を持っています。

矛盾を内包し、それらの矛盾を統合させながらもなおも矛盾であり、世界に内在し外在し、また内在も外在もしないもの。要するに何でもありのジョーカーです。priest, primal, April......すべてがではありませんが、しばしばこれらはPriest, Primal, APrilとして、神の次元に到達した者、宇宙の誕生以前の世界、(すべての平行宇宙で繰り返されてきた、また、客観的・全人類それぞれの主観的な)四月、といった意味を持ちます。

これらのpri-性を統括する言葉としてしばしば使われるのがこの"priority"なのです。

これを単に最優先性などと訳して、訳注で「原文ではpriestやprimalに含まれるpriをまとめた"pri性"といった意味合いを持つ」などとやるのでは、何のための翻訳かわかりません。単に辞書にしたがって言葉を置き換えるだけならば、googleにだってできます。

翻訳とは、偶然にある言語で行われた言語表現を、その発話がなされる瞬間の意図と意志とにまで還元して、別の言語を使って再編成することなのです。あらゆるpri-term、特にそれらの中でも極めて重要な意味を持つprimal, primordialらとは一見して意味の共通性を見出せる語でなくてはなりません。

最終的に"紀"をpriの対訳として選び、紀ょ無僧、卯月紀(うづき)といった形でpriを訳語に取り込んでいったのは、このpriの音に"I"の響きを感じ取ったからです。

71の人格に分断され、それぞれ独立した意識を持ちながらも、自分たちが不完全であることを暗に自覚しているキュトス。彼女たちにとって世界そのもののアンサーとなる、互いに矛盾しあう自分たちの人格を統合し、彼女たちの世界の中にあってまた彼女たちすべてを内包する超越的な、失われた始原のI。

この語を訳するに当たって、”己”の字を含み”紀元”の語にも含まれている、”紀”よりも相応しい文字を、他に日本語の中に認めることができなかったのです。

   ――『キュトス・チェンバースと暗黒神話 〜71重人格の天才がつづる異形の物語〜』翻訳者インタビュー

フォローされている:30 って、すごくやっちまった人みたいだ。

フォローしている:30 も、まわりの顔色ばかり窺っているみたいだ。

エジプトの神々がエジプト古代の王族の格好をしているのは、その時代における最も力あるものの象徴だからだ。

真女神2のルシファー、Sagaの神、Saga2のアポロンがスーツを着ているのは、現代の神話として完璧に正しい。

4/7

無意識が仕事をした。

マーガレットから連想される白い花へのオマージュとして、同じく白い花であるNarcissusを使用する。

Narcissusは黄色かったりもするが白かったりもする。まあよかろう。 NarcissusはNarcissusであるので、自分に恋をした少女である死楽にはベストフィットする白草だ。

楽しみにするをwishとして、narc-wishes。調べてみると、Narcissus tazettaという花があるのでNarcwishes tanatos。

そしてごろが悪いので没。もっとましな訳を考える。

twitterやってる人が「俺のfollower」って言うのが面白い。

俺のfollower(笑)

どんなパイオニアなんだよあんた(笑)

2ページ目の没ネタ。

4/6

言わんでもわかるかと思ったのだが。

 凍らる ; Frozen

 coral ; 紅 ; rosen

 城 ; palace

 白 ; 青白い ; pale

かなり自然な言葉でありつつもわずかに違和感を与える点、異言語が一つだけ混ざっている点まで含め、よくできたのではないかと思っている。

その辺に関するBBSを作った。

死楽の訳を構想する。キーは3つ。

 1.マーガレットから連想される白い花へのオマージュであるシラクサを語源に持つこと。

 2.シラクサの語彙自体はオリジナルだが、音はルーツが存在すること。

 3.死と楽のエコーを持つこと。

日本語ではシラクサ→シラクと短縮の道を辿ったが、ごろの問題であり、伸ばす方向も考えられる。たとえば、white grass→white grasp。

シラクサはギリシャ・ローマ時代の戦闘の地として微かに剣士のニュアンスを持つが、それほどは重要ではない。

この辺まで論理を積み上げて、あとは無意識に処理を投げる。セイラーガントーイ・A・ジョーについては諦めた。

4/5

こおらるしろの英訳を考える。Frosen Paleceでどうか。

マーガレット・TCG型ゲーム(以降、MTG)におけるトーナメント制の問題点。

トーナメント自体のクライマックスが近づくにつれて、プレイヤーを含めたギャラリーの熱の総和が低下する(敗退したプレイヤーは興味を失う傾向にあるため)。

敗退したプレイヤーから、フレーバーを書き終える機会を奪う(自サイトなりどこなりで書けばいいという反証は、当然視野に入れた上で)。

キャラクターに無茶な成長を推奨する。無茶な成長をすればそれ以降が不利になるのは事実だが、負ければすべてを失うので、バランスのよい成長をするのがギャンブルめく。

どれもメリットの裏側の表情であり、一概に悪いとは言い切れるものではない。が、これらの性質をひっくり返した違う形式というものを、想像してみるのも無駄ではないだろう。

マスクスやプロフェシーのやり方はシミュレーターが存在しない現状、TCG向きではない。M:tGで採用されているスイスドロー形式は、しかし、MTGだと1回戦敗退時点で優勝の目がない戦いを続ける原動力になりうるだろうか。上位数名が決勝ラウンド、という形式ならいいのかもしれない。

4/4

神は七日目にこう言われました。もういいよそれ

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